赤膚焼と小堀遠州
小堀遠州(こぼれえんしゅう) 1579 ~ 1647年
小堀遠州の父、小堀新介は郡山藩豊臣秀長の家老であった。遠州は郡山城で後年、茶人としても有名になり秀吉の茶の湯の給仕役を務めた。
豊臣家が滅亡し徳川に仕え作業奉行をして、遠江守であったので「遠州」と名乗った。
茶道の他に造園も手がけ、後年郡山藩主と交流し遠州考案の庭園が残っている。
後、古田織部にも茶道を学び、「遠州流」茶道を創立し、徳川三代将軍、家光の茶道師範でもあった。また67歳の時、当時の郡山城主本田政勝に招かれて城の茶会に出席している。このように遠州と大和の関係は深いものがあった。
赤膚焼においても、自らの好みで茶陶を発案し、小堀遠州の茶人としての指導を行った。
遠州七窯(えんしゅうなながま)とは、小堀遠州の好みの茶器を焼いたとされる七つの窯。遠江(静岡県)の志戸呂(しとろ)、近江(滋賀県)の膳所(ぜぜ)、山城(京都府)宇治の朝日、摂津(大阪府)の古曾部(こそべ)、筑前(福岡県)の高取(たかとり)、豊前(福岡県)の上野(あがの)、大和(奈良県)の赤膚(あかはだ) の七窯をいう。遠州七窯ということは江戸後期ごろ道具商によりいわれたといい、初出は嘉永7年(1854)田内梅軒(米三郎)の『陶器考』(同附録・安政2年・京都 西村九郎右衛門 明治16年刊行)とされる。