赤膚焼の歴史
遠く赤膚焼の渊源を尋ぬれば、人皇第十一代垂仁天皇の御代、野見宿禰埴輪の製作を建言し、宿禰の末裔土師の姓を賜りて一族、大和國添上郡伏見菅原の里に蟠居す。また平城京の甍の焼成をなされしも、共に赤膚の地に近く、住古より赤ハダ山周辺丘陵は、良質の陶土を産するを以って世に聞こえたる土地なりき。
中古以来、春日御神供の供御の科とせる赤白土器座も、西の京に置かれたるは、以てこの証となすべき所なり。京洛にも名高き奈良風爐・奈良火鉢もこの座にて製せられし事は、夙に『山科家礼記』にも誌されし事実にして工人をば坏手( つくで) と呼べり。
更に天正の昔。秀吉の弟、大和郡山の城主、大和大納言秀長公。常滑の陶工与九郎を召され、当時流行の茶道具の製作を奨励されしは、郡山の地にて。彼の文人柳里恭は郡山御城下、大職冠の地にて窯を開かれたりしと聞く。
茶道の大家、小堀遠州は、遠州七窯( えんしゅうなながま) を選んだが、赤膚焼もこの一つに加えられ、茶陶としての名が高められし所なり。
其の後衰徴せるを寛政4 年、名君の誉も高き大名茶人、尭山柳澤保光侯、京より陶工治兵ェらを招き再び赤膚焼の窯業を興さしむ。その頃家中には、青木木兎らの上手出て、町方にも一躍、赤膚焼の名を天下に轟かせしは、名工 奥田木白( おくだもくはく) の出現なり。木白は「諸国焼物模物所」の看板を掲げ各種の茶陶をも焼成し、卓越せるその意匠と技倆をもって、たちまちに他を凌駕す。爾来赤膚焼は、焼物の八宗兼学とも言うべき性を備えたりき。その後、父にも優る名工 奥田木佐や各窯元の活躍ありて、愈々茶陶 赤膚焼の伝統を、後世に伝え得るようになり現在に至る。